つれづれ

身近な親しいひととの別れがつづいた。
死について考えているようでいて、どこか恐怖を抱いていて直視することから逃げていたような気もしたり。

いろいろあって、FPの方に我が家の家計を見直して頂く機会があった。
お金についてもどこか逃げ腰の自分をひしひしと感じながらの面談。
ふと、それは死について考えることへの恐れによく似てるなぁと思った。

お金が貯まる仕組みづくりをすること。
子どもの教育費がかさむこれから10年弱をどう乗り切るか。

ここまでは、ごく当たり前の(とはいえ、まったくできてなかった)現実の話だった。

ここではお金はとても大事なツールとして存在している。これも当たり前だ。いまのところ、お金がなければ生きてゆけない仕組みに大半のひとが依存しているから仕方ない。

長女大学卒業時の貯蓄が○○円、夫が70歳のときに住宅ローンの残債が○○万円、75歳で満期になる保険、28歳で長男結婚etc…

そんなシミュレーション。
とても違和感を感じてしまった。

いまこの場を1歩出たところで事故に遭い死んでしまう可能性をゼロにすることは絶対ににできない。本当のところ、それだけしか自明の理はない。なんたってみんな死亡率100%。
70歳のわたしのためにいまを生きる。
たしかにそれも正しい。
正しいけどもやもやしたままだった。

ぼんやりしていたからなのか、リスクヘッジということばを何回も力説された。
リスクなしで生きていくことはできない。だから知恵を絞りなさい。。。

明日死ぬかもしれないと考える人にはなにも響かないことば。
もっともリスクを減らす方法は、お金も地位も名誉も最初から欲しがらないこと、所有しないことしかないんじゃないの?今日ただしあわせに生きることなんじゃないの?と。

エリザベス・キューブラー・ロスの著書に書いてあること。
『なぜあしたのほうが今日よりも幸福や力を手にする可能性が高いように思えるのだろうか?「もっと」というゲームは人間を不足という場所にとどめ、まだまだだと感じさせる。もっとあれば、もう少しだけあれば、幸福になれる。しかし、死の床にある人たちはもっとというゲームを卒業しているなぜなら、彼には「あした」がないからだ。かれらは「きょう」のなかに力があり「きょう」がすべてであることに気づいている』

とはいえ

だけど、お金はただの紙切れだと思いながら、紙切れだと言い切れない自分がいる。
人はみな死ぬと思いながら、いつ死んでもいいと言い切れない自分もいる。